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February 27, 2007

12. 視点を変えるには

 さて、視点を変えるためには、特に新しい視点を得るためには、何ができるだろうか。これはなかなか難しい質問である。視点を変えなさい、と命令したからといって、必ずしも新しい発想ができるとは限らない。しかし、これを職業としてやっている人たちがある。他人に、新しい視点を与えて、成長を促したり、問題を解決したり、優れた成果や成績をあげる手助けをする人たちである。

 もちろん、教師やカウンセラーにもこうした役割は求められるが、ここでは、コーチについて考えてみよう。ここでいうコーチとは、いわゆる、スポーツや、ビジネスの領域で活躍しているコーチングをするコーチである。

 コーチは歴史的にはまずスポーツの分野で始まった。現役時代に優れた選手だった人が、後輩を指導するようになったのである。ところが、「名選手、必ずしも名コーチならず」なのである。それどころか、選手としては、いまひとつだった人が、コーチとしては、すばらしい成果を挙げるということも珍しくない。それで、アメリカを中心に、そうした、名選手でないコーチは、自分でできるわけでもないのに、どうやって名選手を育てているのか、いったい彼らは何をしているのだろう、ということが研究された。そして、その結果がコーチングとして、まとめられてきたのである。

 たとえば、バッターが三振してしまったとする。名選手だったコーチはどなる。
「しっかり玉を見ろ! どこ見て振ってんだ~。」
これが、よくある機能しないコーチングの典型である。そんなこといわれなくても、選手はしっかり見ているつもりなのだ。

では、できるコーチはどうするか。
質問するのである。
「今の玉は、どっち回りに回転していた?」
「え?」

しっかり見ていたはずの選手なのに答えられない。どっち周りに回転していたかって?そんなことは気にしていないのである。そして、
「あっそうか」と気づく。

つまり、この質問がきっかけとなって、ボールの見方が変わっていく。回転はどうか、という新しい発想がうまれ、そこも見ようとするのである。つまり、これが新しい視点を得る、ということなだ。

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February 26, 2007

11. ほっぺたをたたかれたら?

痛みと快楽の原因を特定する法則、つまり、1番近いもの、直前に起きたことを原因と断定する。というのは、もちろん大人にもあてはまる。例えば、たった今、私が、あなたのほっぺたをひっぱたいたとしよう。そうしたら、もちろん、あなたは、痛い!と叫んで、私をにらみつけるだろう。たった今、ここで、私がたたいたことが原因なのは自明だと感じるからだ。

 しかし、本当は、私は空手の達人で、あなたのほっぺたの直前で、寸止めしており、そっとなぜただけかもしれないのだ。そして、いたみの原因は、一年前から放置してあった虫歯のせいかもしれないのだ。しかし、そんなことは、普通は誰も考えない。つまり、大人もこの仕組みで、世界の原因と結果を考えているのである。

 実は、タバコを吸っている人は、ある意味じゅうたんの上で這い回っている赤ちゃんに似ている。こんなことを言うと、気を悪くする人もあるかもしれないが、何もスモーカーが劣っているといっているわけではない。タバコのほうが上手なのである。人間はどうしたって、床で頭をぶつければ、ぶつけた床に着目してしまうのである。そのように認知の仕組みができているのだ。実際、夏目漱石も、森鴎外もタバコを吸っていたのだ。戦前までは日本の男性の喫煙率は非常に高かった。

しかし、残念ながら、床の上のじゅうたんを眺めている状態では、いつまでもそこから抜け出せない。周りを見渡して、過去を振り返ってみることが必要なのだ。そうすれば、テーブルが目に入るかもしれない。リセット禁煙では、そんな、人々の視野を広げる手助けができればと考えている。つまり、人間の認知の弱点に挑んでいく。それはなかなか興味深い探検になる。なぜなら、探る当人も同じ認知の弱点を持っているから。つまり、それは、自分自身の認知つまり、もののとえら方への挑戦とも言えるのである。

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February 24, 2007

10. 快楽と痛みの連想体系はどこから来たか。

 突然ですが、赤ちゃんには痛みと快楽の連想体系はあるだろうか。もちろん、赤ちゃんもたたけば泣くし、甘いミルクを飲めばニコニコするだろう。しかし、真っ赤な唐辛子を見ても、好奇心いっぱいに口に入れてしまう。つまり、痛みや快楽を感じることはできても、何がそれを起こすかという連想体系はまだない。それで、テーブルの上に赤ちゃんをのせれば、当然落ちてしまう。落ちるということと、痛みが連想されていないからである。

 さて、脳は、強い痛みや快楽を感じると、直ちに原因を探る。原因がわかれば、痛みであれば、避けることが、快楽であれば、また求めることができるからである。それも、一瞬のうちに、原因を、特定というか、断定してしまう。なぜそんなに早いかというと、それだけ早く学習しても、人が生まれて歩けるようになるまで、約一年を要するのだ。

 この、原因を特定するときに、脳には2つの基本的な原則がある。といってもとくに難しい話ではない。要するに、痛みや、快楽を感じたときに、距離的に1番近くにあるもの、時間的には直前に起きたことを原因だと判断するのだ。もちろん大抵はこれでうまくいく。

 テーブルにのせられた赤ちゃんの話に戻ろう。テーブルから落ちて、痛くて
ギャーッ。脳は直ちに原因を探す。それで、そのとき、落ちたところが、赤いじゅうたんの上だったとすると、脳は、1番近くにあるものが赤いじゅうたんなので、赤いじゅうたんを痛みの原因だと思うかもしれない。もちろん、この連想が正しいかいえば?
 間違っている。ですから、またテーブルにのせると、赤ちゃんは落ちる。

ギャーッ。 脳はまた原因を探す。こんどは、青いじゅうたんの上。脳は「え、赤じゃないの?」と少し混乱するが、共通点を探すことで解決する。「ああ、じゅうたんが一緒だな」というわけだ。それで、今度は、じゅうたんが痛みの原因だとの連想ができる。まだ、連想体系は?そう誤りである。従って、またまた、赤ちゃんはテーブルから落下。

ギャーッ。
さて、今度は、フローリングの床だったとしよう。ええーっ、じゅうたんでもないの? 脳はまた混乱するのだが(ということは、つまり、混乱するというのは、いい知らせである。なぜなら、連想体系が変化するというサインなのだから)、今度は、ぐるっと周りを見渡してみるかもしれない。すると、テーブルが目に入る。あるいは、すこし時間をさかのぼってみるかもしれない。ああ、あそこにのっていたなあ。そして、それに気づいた瞬間、今度は赤ちゃんは、高所恐怖症になってしまうのわけだ。
ただし視覚的遮断という実験では、視覚的認知の条件が整えば赤ちゃんは高いところを怖がることがわかっている。何を生まれつき怖がるかというのはワトソンという20世紀初頭の心理学者によると、暗闇と突然の大きな音と、突然支えをはずされることだそうだか、大抵の人とサルが蛇を怖がることから、何を生まれつき怖いと思うかは進化の歴史の中で、遺伝子に刻み込まれているという意見もある。

 この痛みや快楽の原因を特定する方法は、赤ちゃんだけだろうか?大人の場合は?


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February 22, 2007

9. 娘の非行と父親からの不満

 父親からの不満(長谷川敬三著「ソリューション・バンク ブリーフセラピーの哲学と新展開」より)

いつも無視される。家での会話はいつも私、つまり父親抜き。母子の会話に入れない。
「私が1番稼いでいるのに。別には入れなくてもいいが、残念な気持ちがする」と訴える。娘の始まったばかりの「非行」に関連する問題の出の夫婦同席面接の場面で明らかになった話題である。

娘が思春期から青年後期にかけて父親と接しなくなることはよくある。妻が仲をとりもってくれるが、ときに娘と直接話したいと、酒の勢いで話しかける。が、酒の匂いをいち早く察した娘に嫌われる。悪循環である。
家での会話は、父からすると母と娘で「マアかまびすしいこと」。父は会話に入ろうとすると、決まって咳払いをする。ゴホン。これで、さっと母子の会話は中断するが、話を始めると決まって母が軽蔑したような視線を娘に送る。すると娘は父の話を無視し始める。
この「相互拘束」もしくは「行動連鎖」の過程は、ほとんど無意識のうちに遂行される。母子の会話は、子供の問題を「理由」として最近はやや減ったが、それでもその会話は、父からすると「かまびすしい」のである。
そこで、ゴホンをやめてもらった。

■介入■
「ゴホン」の代わりに、小声で「お母さん」と呼びかけてもらう。(中略) 娘の非行のことにはとくに触れずに、介入は、ほぼこれだけであった。

1ヵ月後の面接で、すでに改善が見られた。「何か、妻がやさしくなった。娘とも話せた」と。1ヵ月1回、娘の非行についても四回の面接で成功裏に終結した。

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February 21, 2007

8. 過去は変えられない

「過去は変えられない」と彼は言った。「変えられるのは過去に対する見方や解釈の仕方だけである」
そして、オハンロンは、性格/人格の不変性について、として、エリクソンの次の言葉を紹介している
「患者は今日と明日では別の人間であり、来週、来月、来年ではまた別の人間となる。今から5年後、10年、20年後、やはり患者は別の人間である。われわれは皆、それぞれに背景を持って生きている。それは確かにそうなのであるが、しかし、われわれは毎日を違った人間として生きているのである。」

さて、それでは、次に、この常に変わり続けている私たちの中で、特に、快楽と痛みの連想体系がどのように生まれ、日々変化していくのか見ていきたいと思う。

<補注:ミルトン・H・エリクソン>
Milton Hyland Erickson, 1901- 1980 は、天才的な催眠療法家として知られる精神科医、心理学者。 精神療法にしばしば斬新な手法を用いた事で知られる。天才的、斬新な手法、とは、例えばこんな事例がある(オハンロン著「ミルトン・エリクソン入門」より)。

 6才の指しゃぶりの男の子。彼は左の親指だけしゃぶっていた。エリクソンは言った。それじゃあ不公平だよ。他の指も、同じくらい時間をかけてあげなきゃ。右の親指もしゃぶるよう、最終的には、他の指も全部しゃぶるように、と少年は告げられた。指しゃぶりを左の親指と右の親指に分散させるだけで、指しゃぶりの習慣がすぐに50%減少した、とエリクソンは語っている。

 エリクソンの影響を受けた弟子や共同研究者たちは、それぞれ独自の治療技法を構築し、総称して短期療法(ブリーフセラピー)と呼ばれる一派を形成した。

ここで「父親からの不満」と題するブリーフセラピーの
事例を紹介する。人や人間関係が絶えず変化していること。チョッとしたきっかけで、往々にしてよい方向へ向かいうることを実感できるであろう。

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February 20, 2007

7.先にあきらめるのは?

 実は、私たちは、率直に言えば「意志が弱い」と「禁煙できない」は関係ない、と考えている。まあ、急にこういわれても納得できないかもしれないので、説明しよう。一味違った説明になるが。

 普通、「意志が強い」といえば、何かをきめて成し遂げようとする心が強いという意味であろう。さて、ここに2人の子供がいたとする。その2人から、その子達が毎日遊んでいるような、本当に大切にしているおもちゃを取り上げたとする。当然、返してくれ、という大合唱がおこる。二人とも、どうしても返してもらえるまで、がんばると決心している。ところが、いつまでたっても、いつまでたっても、返さなかったとしたら、そのうち、本当は返してほしいんだけど・・・。とあきらめてしまう子供もいるかもしれない。あるいは最後までがんばる子供もいるだろう。ここで意志が強い子供と弱い子供と2人いたとして、先に仕方ないか、とあきらめてしまうのは、意志が強い子供か、弱い子供か、どちらだろうか。

 難しく考えないでほしい。ごくごく当たり前の感覚で言えば、それは、当然、意志が弱いほうの子供であろう。タバコも一緒なのである!

仕方がない、健康のためだ・・・と先にタバコをあきらめるのは意志の弱いほうなのかもしれないのだ。
 少なくとも、意志が強い弱いと、禁煙できるかどうかは関係ない。だって、意志のすごく強い人で、何でもきちんとやって、人物的にも尊敬できるような人でも、禁煙だけはうまくいかないというような人は、いくらでもいるではないか。剣道七段だったという橋本龍太郎元総理大臣の例を引くまでもなく、きっとあなたの周りにも、思い浮かぶのではないだろうか。

 この話を聞くと、大半の「意志が弱いから禁煙できないかも」と心配していたスモーカーは、少し心が軽くなる。あ、そうなんだ!とあたらしい視野が得られ、その分、心が少し自由になり、本来の力を取り戻す。リセット禁煙では、こんなふうな気づきを繰り返していく。そうして最後には、ごく自然にタバコへの興味が失われていくのだ。これは、単なる「気づき」の領域を超えている。それで、私たちは「気づきの連鎖反応」と呼んでいる。

 さて、話を元に戻そう。何に痛みを、何に快楽を連想するかで、その人の人生の質が大きく左右されるというという話であった。いうまでもなく、自分の痛みと快楽の連想体系がどうなっているかは非常に重大なことだ。ところが、人は誰しも、気づかないうちに、自分はこういう人間だと思い込み、連想体系は変わりうるということを忘れてしまうのである。それどころか、自分の可能性を限定するようなことを断定的に信じてしまうことも珍しくない。例えば、そう「自分は意志が弱い・・・」はそうした思い込みの典型例である。あるいは「自分は仲の悪い両親に育てられたから・・・」。そして、「主人が吸うから、また禁煙しても結局・・・」

 ところで、突然であるが、まだ、向精神薬が開発されていなかった時代に、革新的な心理療法を行っていたミルトン・H・エリクソンは過去についてこんな言葉を残している。以下ウイリアム・ハドソン・オハンロン著「ミルトン・エリクソン入門」より引用する。

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February 19, 2007

6.究極の教育

 私は仕事柄、学校を訪ねて、子供たちにタバコの話をすることがある。
そんなとき、校長先生に教育についてお考えをうかがったりもしている。

 あるとき、「たった一つだけ教えてあげられるとしたら、本を読むことの楽しさを教えてあげたい」とおっしゃった先生があった。それを聞いて私は目からうろこが落ちた思いがした。それさえできれば、たとえ、学校で勉強することができなくなったとしても、その後その子達は自主的に本を読み、自ら学習していくであろう。まさに「究極の教育」である。何が違うのか。

 それは、この教育が単なる知識の伝達ではなく、その子供の行動の元となっている、痛みと快楽に関する連想体系そのものを変えているからだ。
 
 何に痛みを感じ、何に快楽を感じるかは、実は極めて重要だ。その人の人生の質を決定づけるといってもよい。運動が好きな人、嫌いな人。サラダが好きな人嫌いな人。ギャンブルが好きな人嫌いな人。悪いほうに向かえば、自滅の原因となる痛みと快楽の連想体系も、よいほうに変化すれば、すばらしい大きな飛躍がまっている。しかも、楽しみながら。なぜなら、たとえば、読書が快楽になった人にとって、もはや、いやいや本に向かうということはありえないからである。

 よく人は、「僕は、ほうれん草は嫌いだ、そういう人間なの」と宣言する。自分は変わらない。と主張する。しかし、ある一冊の本との出会いがきっかけで、本嫌いだった子供が読書好きになることがあるように、人は変わりうるものだ。しかも、この快楽と痛みの連想体系たるや、突拍子もなく柔軟性に富んでいる。人間は実にいろいろなものが好きになるのだ。それは、世の中には、スタントマンから、アニメーターまで、実にさまざまな仕事があるということや、人々の趣味の世界や、性的な嗜好などを考えれば容易に想像がつくだろう。
 つまり、自分はこういう人間だ、というのは単なる、思い込みかもしれないのだ。そして、思い込みが解けることは、何の苦痛もなく大きな変化を起こすきっかけとなる。思い込みが解け、痛みと快楽連想体系のスイッチが切り替わった場合、初めはわずかな違いでも、ずっと続いていくうちに、大きな違いに発展することは珍しくないのである。

 喫煙者、非喫煙者を問わず、タバコに関しては実は、数限りないほどの思い込みがある。この本全体を通じて、ひとつひとつ検証していくが、ここではまず、非常に多くの人が抱いている、

「意志が弱いから禁煙できない。」について考えてみよう。

 あなたは自分が禁煙に失敗するのは、あるいは、禁煙に踏み切れないのは、意志が弱いからだと思っていない?ちょっとでも?

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February 18, 2007

5.とっさに言葉が出るわけ Ver.2

<前回の分を、いろいろ考え直して、書き直しました>

 fMRIを使った研究によって、人間で見つかったミラーニューロンに相当する部位は、前頭葉の運動野、なんと、言語における運動出力を担うブローカ野であることが示唆されているのである。あのブローカ失語(運動性失語)のブローカ野である。始めてこの事実を知ったとき、私の頭は混乱した。なぜミラーニューロンがある場所が、言語の中枢なの?それってどういうこと?

 たぶんそのとき私は、他人の心を察するという感覚的なことと、「言語を話す」というような、ある意味、論理的なものが共存することに、違和感を抱いたのかもしれない。
しかし、頭をひねって考えているうちに、こんなシーンが思い浮かんだ。フィギュアスケートの大会の場面だ。音楽が流れる、選手が滑り始める。ジャンプだ。あっ転んだ!
 まさにその瞬間、見ている人たちの心の中には、直ちに「ああっ、痛い」というような悲鳴にも似た、「言葉」が浮かんでいるのではあるまいか。つまり、他者の動作を自分の動作として感じた、感じよう、つまり感情と、言葉とは直結しているのではないかということである。そして現にミラーニューロンはブローカ野に存在している。

 直結どころではない。哲学や認知科学では、出来事(この場合は選手が転ぶのを見ること)によって引き起こされる順番は、「感情」が先ではなくて、むしろ「言葉」や「思考」が「感情」に先行するのではないかと考察されている。
同じフィギュアスケートの大会の場面で考えてみると、ほめられた話ではないが、もしその大会に自分の子供も出場していて、転んだのが子供のライバルだったとしたらどうであろう。同じ選手が転んだシーンを見たとしても、その瞬間、「痛い」ではなく「やったー」と感じるかもしれないのである。つまり、同じ視覚的入力がありながら、生じる感情は違ってしまった。これに対して、それは「選手が転ぶ」という視覚情報により、まず、「ライバルが転んだ、これで娘が勝てる」という思考が先行し、それに引き続いてそれに見合った感情が湧いて来るからだと説明するのである。

実際、認知行動療法、論理療法などの臨床心理の現場では、うつ病や不安障害を中心に、病的感情の原因となっている不合理な思考のゆがみを探し訂正することで、患者の苦しんでいる感情を解消するという治療法が確立している。

 おっと、これ以上深入りするのは止めておこう。ただここでは、喫煙者の心理を探る手がかりとして、外部からの情報入力に対して瞬間的に呼応する、感情と思考には気っても切れない関係があることを、脳神経のネットワークの観点からみていただければと思うのである。特に、そのネットワークの要に言語野があるということ、つまり、外界に対する人の反応において、言葉・思考の持つ直接的かつ強力なパワーを感じ取ってもらえたらと思う。

 タバコでいえば、禁煙中にそれまでは何ともなかったのに、たまたまタバコのことを思い出し、「吸えない」と思った瞬間に猛烈に「吸いたくなりはじめた」というような経験をお持ちの人は多いだろう。もしここで、「吸えない」と思った瞬間「吸いたくなる」というのが体の欲求であるとすると、思い出すまでは何ともなかったというのは、体の欲求にしては、不自然であろう。われわれの研究では、どうやらタバコに関しては、思考の問題が非常に大きいのだ。そして、リセット禁煙は実はここ、つまり「思考」の部分に正面から向き合い、心のケアを実践していくのである。
 
 次回は、ある校長先生に学んだ、「究極の教育方法」について述べてみたい。

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February 16, 2007

5.とっさに言葉が出るわけ

  fMRIを使った研究によって、人間で見つかったミラーニューロンに相当する部位は、前頭葉の運動野、言語における運動出力を担うブローカ野であることが示唆されている。あのブローカ失語(運動性失語)のブローカ野である。始めてこの事実を知ったとき、私の頭は混乱した。なぜミラーニューロンがある場所が、言語の中枢なの?それってどういうこと?

  つまり、私は、他人の心を察するという感覚的なことと、「言語を話す」というような、ある意味論理的なものが共存することに、違和感を覚えたのである。
しかし、頭をひねっているうちに、こんなシーンが思い浮かんだ。運動会のかけっこの場面だ。よーい、ドン! あっ転んだ!
 まさにその瞬間、見ている人たちの心の中には、直ちに「ああっ、痛い」というような悲鳴にも似た、言葉が浮かんでいるのではあるまいか。つまり、他者の動作を自分の動作として感じる感情と、言葉とは直結しているのではないかということである。そして現にミラーニューロンはブローカ野に存在している。

 それどころか哲学や認知科学では、むしろ「感情」よりも「言葉」や「思考」が先行するということが考察されている。ほめられた話ではないが、同じかけっこの場面でも、自分の息子も出場していて、転んだのがライバルならば、同じ子供が転んだシーンを見たとしても、きっと「痛い」ではなく「やったー」と感じるかもしれない。同じ場面を見ても生じる感情が違うのは、「息子に勝たせてやりたい、ライバルが転んでくれれば、勝てる」という思考が先行しているからだ。実際、認知行動療法、論理療法などの臨床心理の現場では、うつ病や不安障害を中心に、思考のゆがみを訂正することで、不合理な感情を解消するという治療法が確立している。

 おっと、これ以上深入りするのは止めておこう。ただここでは、喫煙者の心理を探る手がかりとして、感情と思考には気っても切れない関係があることを、脳神経のネットワークの観点からみていただければと思うのである。また、そのネットワークをもしのぐ、言葉・思考の持つ強力なパワーも感じ取ってもらえたらと思う。

 タバコでいえば、吸いたくなる気持ちと、吸うことに対する理由付け(思考や言い訳)は、表裏一体の関係だ。そして、体からの欲求に負けず劣らず、思考の影響は大きい。リセット禁煙はここに切り込んでいくのだ。
 
 次回は、ある校長先生に学んだ、「究極の教育方法」について述べてみたい。

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February 15, 2007

4.心への手がかり ミラーニューロン2

 パルマ大学(イタリア)のガレーゼ(Gallese)とリゾラッティ(Rizzolatti)のグループは猿の大脳皮質運動前野に細い電極を刺し、エサを取ったり口でくわえたりするときに活動する神経細胞の研究をしていた。神経細胞が活動するときに生じる電圧の変化(活動電位)をモニター上のグラフや音として検出するのである。猿がエサに手を伸ばすと神経が活動して、モニターからバリバリバリと音が出るような仕組みである。

 さて、休み時間になり研究者たちはアイスクリームを食べ始めた。すると猿にはエサを与えていないのに、バリバリバリと音がする。もう一度アイスクリームを手に持って口に運ぶとやはり音がする。それがミラーニューロンの発見の瞬間であった。なんとそのニューロン(神経細胞)は猿自身がエサを食べるときだけでなく、人がエサ?を食べるのを猿が見たときにも活動するのである。その後暗闇の中で猿がエサをたべるときにも活動することがわかり、単に視覚情報に反応しているわけではないことも判明した。

 以上まとめると自分の動作にも、他者の動作にも同じように反応するニューロンがあるということである。

 この発見に学会は騒然となった。他者の心がなぜわかるのか、というなぞを解く糸口となるのではと考えられたからである。ミラーニューロンがあれば相手の動作を見たときに、それを自分の動作として追体験することが可能となる。つまり相手がこういう動作をしているということは、自分がこういう動作をしていることに相当するとシュミレーションすることができる。ということは、そのときの心の状態は・・・という推定ができるのである。

 ミラーニューロンに相当する部位はfMRIを使った研究によって、人間でも見つかり、さらに興味深いことがわかった。

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February 14, 2007

3.心への手がかり -ミラーニューロン-

 まだ物心ついて間のない頃、とはいっても、もう小学生にはなっていたと思う。ふとした同級生のしぐさと表情に接して、私はその瞬間の彼女の心情がダイレクトに自分の心の中に映し出されたように感じて驚いたことがある。とりたててその女の子を観察していたわけではない。むしろボンヤリ見ていたのだか、それは、既視感(デジャブ)とでもいうのだろうか、彼女が今味わってる感覚は、あの日あの時のあの自分と同じだ、というような極めてリアルな感覚だった。
 具体的にどんな場面だったかは、覚えていないが、たぶん彼女が友達と話をしていて共感を得てうれしくなった瞬間とか、逆にのけ者にされかかって焦った瞬間とか、そんなシーンだったように思う。
 
 それからというわけでもないのだか、自分の中では、以前からなんとなく感じていた、どうして人間には他人の心の中の痛みや喜びを感じとることができるのだろう、という疑問が意識されるようになった。

 きっとあなたもそうだと思う。そこまでリアルに感じることは珍しいとしても、大体顔を見ればその人が機嫌がいいかどうか大まかに想像つくのではないか。そして「他人の痛みをわかる人になりなさい」と学校でお説教されると、大半の人は、「もともと普通の人間ならそれなりには感じるものじゃないかしら」とか、「それって教えられるものなの?」とかと思うのではないだろうか。無論ここで、学校の先生が訴えているポイントは、文字通り「痛みをわかる」ことだけではなくで、「痛みを尊重して行動できる」ようになりなさいという意味でもあるのだが。

 実際、事故現場の映像などで痛々しいけが人が出てくると、人々は思わず目をそらし、あたかも自分もその痛みを感じているかのような心境になる。それは、頭で、手足のこの部分がこうなって、出血がこのくらいあったら、このくらい痛いだろうな、と論理的に想像しているというよりは、もっと直接的に痛みを感じてしまう。と言った方があたっている。もちろん実際に自分の手足が痛いわけではない。そう、そんなときに、私たちは「心」が痛む。と表現したりする。

 相手は人間に限らない。傷ついた子猫が足を引きずっていたら誰だってかわいそうに思うだろうし、クーンクーンと甘えてくる犬の鳴き声を聞いただけで、なんとなく犬の気持ちがわかるから不思議である。

 この他者の痛みや快楽をわがことのように感じ取る仕組みは長いこと私にとって神秘であった。ところが、このテレパシーにも似た能力をストレートに反映する神経細胞が見つかったのだ。その名もミラーニューロンという。1990年代初頭のイタリアでのことである。


>>もちろん、冒頭の彼女が私の初恋の人というわけではないので、あしからず・・・。


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February 13, 2007

2. 「快楽」からみた禁煙の脳科学

 世の中にはいろいろな人がいるものだ。優しい人、怒りっぽい人、ハンドルを握ると人が変わったようにアクセルを踏む人、バナナが嫌いなひと、セロリが好きな人。マザーテレサからヒットラーまで。
 しかし、あらゆる人のあらゆる行動は、たった一つの基本原則で説明できる、という。特に難しいことではない。いわく「痛みを避け、快楽を求める」。アタリマエのことである。ノンスモーカーはタバコを嫌がり、スモーカーは自ら求める(もちろんそうでないときもあるけど)。ところで、この「痛み」や「快楽」は、生物の進化の過程では、どのように生まれてきたのであろうか。

 例えば、大腸菌を培養液の中に入れると、栄養分の濃度が濃いほうに向かって、進んでいくという。大腸菌がそれを「快楽」と感じているかは別としても、こっちの水は甘いぞ、という入力に対して、接近しようもしくは、回避しよう、という選択をするとき、接近しよう、というのは、快楽の、回避しようというのは、痛みの原型となるものだといえるだろう。
 多細胞生物の人間は、外界からの入力を捉える感覚器官と、それに対する、出力として、接近・回避の行動を起こす、運動器官を発達させてきた。そして、この入力と出力の仲立ちをするのが、脳である。だから、脳の根本的な機能は感覚に応じて運動を選ぶこととなる。もちろん、ここで言う運動は、単に体操したり歩いたりだけを指すのではなくて、話をしたり、泣きべそをかいたり、じっと家に引きこもったりすることも含まれる。まあ、大きく「行動」といってもよいかもしれない。
 
 言うまでもなく、同じ入力であっても、出力される人間の行動は変わっていく。つまり快楽や、痛みを感じるパターンは変化する。飽きたり、ハマったりする。タバコをめぐって現れる、非喫煙→喫煙→禁煙→などの行動も、そのダイナミックな変化の一例といえる。
 
 近年、脳科学の進歩により、脳がどのように、「痛み」や「快楽」を感じるか、感情や行動はどう結びつくのか、が少しずつ明らかとなってきた。その一方で心理学でも、思考や行動、感情をめぐり新しい理論やセラピーが登場し、まさに10年一昔の進歩を遂げている。こうした、知見を踏まえながら、喫煙と禁煙をめぐる、心の中でのせめぎあいを、できるだけ科学的に記載してみたいと思う。
 私自身、禁煙外来で、喫煙者の禁煙を支援している身ではあるが、この文章では、「禁煙しましょう」的なスタンスから離れて、できるだけつぶさに、「タバコ」とはいかなるものなのかを見ていきたい。そこでは、タバコを軸に、細かな脳内分子や、画像診断、認知科学の知見を統合する試みが行われる。そして、そもそも「痛み」や「快楽」がどこから生まれるか、そのパターンはどのように変化していくかを探っていく。それはきっと「快楽」に満ちた冒険旅行になると予感している。


>>ちょっとカッコつけすぎた文体になってしまった。
続くかなあ・・・(^^)


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February 11, 2007

1.「快楽」からみた禁煙の脳科学

新年に、今年は100冊本を読むぞ、と宣言しました。
自分の場合、自然に禁煙がらみの本になってしまうのですが・・・。そこで得られた知識や考えたことを、できるだけシェアすべく、連載式に文章を書こうと思います。

そこでは、知的好奇心の強い人でも納得できるように、
ある程度専門的な記載をふんだんに入れて、
脳が快楽や、好き嫌いをどのように感じるか、感情や行動を最新の心理学や精神医学ではどう捉えているか、など、
読み物としても面白くできればな、と願っています。

三日坊主の私ですが、なんとかがんばりたいと思いますので、
どんなちょっとしたことでもうれしいので、積極的にコメントをくださいね。


それでは、明日から(^^♪
って、いきなり大丈夫か?



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